第五十九話 ありがとう

第五十九話 ありがとう


冒頭からなんて書いていいかわからない。

先週日曜日、父が永眠した。76歳だった。
通夜を終え、葬儀も終えたばかりのこのタイミング。もう少し先伸ばそうかとも思ったが、父の供養にもなることだから「父とボク」の思い出話だけでも綴ろうと思う。あまり暗くならないよう、闘病生活の部分はちょっとだけ。

文脈、時系列めちゃくちゃに、コラムというより長い思い出日記になりそうですが、どうぞお付き合いください。



「父とボク。」

小さな頃から、夜中に帰宅して朝6時にはもういない働き者の父だった。
家の裏が会社の工場だったこともあり、工具や機械、フォークリフトなどがボクの遊び道具。小さい頃から箱詰めなどの内職など度々あり、夜中まで家族でやったことを思い出す。末っ子のボクなどたいして役に立たないのに、仕事の大変さを経験させるための父の計らい。眠たい目を擦りながらも手伝いたい気持ちが上回り、みんなで作業していることだけで楽しかった。

たまの休日、兄とボクを連れ出す父。
どこへ行くかと思いきや、そこは近所のプラモデル屋さん。どんな高いものでもいいから自分が好きなものを選べと言う。この店にある中からなんでもいいなんて飛び上がるほどの衝撃。ボクは持てないくらいの大きな軍艦、兄はバイクを選ぶ。低学年のボクには使いこなせるはずもないプロ用のエアブラシのセットやプラカラー(塗料)、ヤスリやパテなど、完成するのに必要なものすべてを買ってくれた。あまりの額にちょっと恐くなりつつも、初めて気っ風の良さに触れた出来事だった。

休日一緒に過ごすことがほとんどなかった父。
東京生まれの両親ということもあり、田舎のない家庭。見兼ねた父は、子供たちに夏冬休みの思い出を作ってあげようと那須高原に別荘を作ってくれた。(詳しくは『じろうの道草 第五十二話』参照)夏は虫とり、冬はソリ、牧場で動物と触れ合い、手漕ぎボートやアーチェリー、ゴルフなど、幼少の頃からいろんな経験をさせてもらった。きっと好奇心を育んでくれたのだろう。

将棋は、大人になってからも続いた父との絆。
若い頃に父(祖父)を亡くした父も、よく一緒にやっていたと聞いたことがある。ボクとは当初、3枚の歩と王将だけで相手をしてくれた。何十年も経ち、昨年あたりから勝ったり負けたりいい勝負をするようになってきた。父にとっては、やっと本気でできる相手としてやり甲斐が出てきたとこだったであろう。せめてもう一局、やりたかったな。

そうそう、将棋といえば麻雀。
ボクがまだ幼稚園にも入っていないころ、取引先の人たちがウチに集まりよく麻雀をやっていた。あぐらをかいてる父の懐に座り、麻雀牌の絵柄を見て「この鳥なに~?」「この丸いのは~?」とか言って困らせたことを思い出した。あの時代だから部屋はタバコの煙でモクモク。今じゃ考えられない状況だけど、きっと可愛かったのだろう。ボクが飽きるまでずっと座らせておいてくれた。

思春期の中学生になると、反抗する母に対するボクの態度に決して怒ることはしない父。
「そんなこと言っているうちは、お前はまだまだ子どもだな。早く大人になれよ。」と悟られる。自分でもわからないこの怒るという感情は、幼稚であることの証明なのかと間接的に教えられた。細かいことを言われるより、この言葉の方がボクには刺さった。

高校3年の夏、受験前の大切な時期にボクは自転車事故で人に怪我をさせてしまった。
相手は足を骨折、救急車で運ばれ入院させてしまう。お年を召した方だったので、今後歩くことができなくなるかもしれない。そういうすべてのことを踏まえ、相手の家族に謝罪をし、父にすべてを解決してもらった。もう大人だと勘違いしていたボクは、どうしていいかわからず、結局なにもできなかった。その後すぐ父に言われたのが、毎日病院にお見舞いに行くこと。そして受験は諦めて、明日からバイトして自分で働いたお金で罪を償えと。人として、本当にありがたい教えだった。

父とふたりで、ニューヨークに行ったことがある。
会社の会長でもある父とは、仕事上でも一緒に過ごした時間が長い。仕事で父とニューヨーク。なかなかこんな機会はない。日程、航空チケット、ホテル、タイムスケジュールなど、職業柄完璧な旅程を整える。普段父は仕事で中国に行ったり来たり、航空マイルが貯まっていたのだろう。成田空港でいきなり2人分のチケットをファーストクラスに変更したのだ。ファーストクラスが良いのではない。なかなかできない経験をさせてくれようとしてくれた父の気持ちが、粋なところが本当に格好良かった。帰りはラスベガスに立ち寄りカジノで遊び、ロサンゼルスではレンタカーして毎日ふたりで楽しく過ごした。大人になってからの最大の思い出。

働き詰めの父の人生。
病気になりこうして療養することになったけど、頻繁に家族が集まり団欒している今が皮肉にも人生で一番幸せな時間だと、最近父がよく言っていた。また、生きていられる可能性があるのなら自分はどんなに苦しい治療でもすべてやると、抗がん剤治療中の苦しさにも負けず、諦めずにいてくれた。弱音を吐くと、家族が辛くなることを知っていたのだ。

だめだ。。。
ここらでやめておこう。



「最後。」

父は最後まで気丈だった。
酸素は60%も入らず、ずっと水に溺れているぐらい苦しかったことだろう。にもかかわらず、リモートで面会するときは冗談を言ったり、家族全員の心配をしたり、辛いそぶりを見せまいと力を振り絞っていたに違いない。看護師さんにまでそうであったとあとから教えていただいた。『武士は食わねど高楊枝』武士ではないけど、生粋の江戸っ子である父の強さ、気高さ、優しさを、最後の最後まで大きな背中を見せてくれた。

本当にありがとう。
もう数十年したら、おじいちゃんとも一緒に将棋をしよう。



「まとめ。」

祖母が亡くなったとき、とても辛かった。
あの時よりも歳も重ねていることだし、別れの免疫はできていると思っていた。

すでに両親を亡くしている人も大勢いることだろう。みんながこの悲しみを経験して乗り切っているかと思うと、すべての人を尊敬する。よく耳にはしていたものの、いざ自分となると想像を遥かに超えるものだった。今後そういう訃報を聞いたら、そのご家族の想いを受け止められる気がする。

こんなことがあって、なぜかずっとアタマの中では<海援隊『贈る言葉』>がずっと流れている。
<人は悲しみが多いほど 人には優しくできるのだから>

時間が気持ちを落ち着かせてくれるはずだから、それまでは足掻かず自分に素直でいようと思う。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
来週は、いつも通りくだらないお題になることでしょう。
それではまた。


追記:
時間をずらして、ひとり事務所で書けてよかった。
ここ数ヶ月、スタッフには本当にお世話になったこと、恥ずかしいからコラムの最後に感謝の言葉を付け加えておこう。
あざす。

ボクの話

道草次郎 物書き
執筆活動を中心に、ディレクションからモノづくりなどにも取り組むマルチプレーヤー。
本サイト内『じろうの道草』で、コラムも担当する。
素性は如何に。
ミスター・アウル
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