第二百六十一話 素朴
毎週日曜日は『じろうの道草』コラムの日
さて今週は、”素朴”について綴ってみようと思う
では今週もまいりましょうか
「素材。」
”素朴”と聞くと、華がないとか地味だとかネガティブな印象は拭えない。ただ最近この”素朴”が異常なほど輝きを放ち、なんしか惹き寄せられてしかたがない。
線香花火のような存在とでも言ったらいいか。打ち上げ花火や手持ちのジェット噴射のような派手さはないが、まるでぱっと咲く牡丹の華やかさに散りゆく菊の儚さとでも申しましょうか、あのか細い花火の小世界がなんとも奥ゆかしくて趣があって。最後に後回しにされることは願ったり叶ったり、はしゃいでいた時間をぐっと落ち着かせ、深みのある一体感をもたらしてくれる。線香花火にしかできない芸当、締めのラーメンよりはおあとがよろしいはずだ。
豪華な料理も温泉旅行の楽しみのひとつ。旬の食材を使った和食なのか、地産を活かした洋食なのか、はたまた伝統的なホテルの料理なのか。ただコレらを差し置いて、いつも朝食にばっかり惹きつけられる。白米に味噌汁、焼き鮭に玉子焼き、海苔にお新香、そして副菜の数々、シンプルなだけに素材の良さが混じりっ気なしに対話してくる。なんと贅沢なのだろう。
ふと思い浮かんだのが芸術家であり美食家の魯山人。『素材本来の味をいかに損なわずに引き出すか』という彼の美学。手の込んだ料理は数あれど、余計なことをせず素材を最大限に活かすという究極の素朴。
人もそう。着飾ることでより良くなろうとすることは決して悪いことじゃない。歳を重ねればなおさら、いろんな経験や考え方の変化によって人は体裁を整えていくもの。だからこそ素朴でい続けることは勇気であり自信でもあり、かけがえのない存在になるように思える。
素朴こそ、最大に魅力なのですぞ
「まとめ。」
AIなどによる社会の変化なのか、世の中の歪みに食傷気味なのか、表面的なものには一層関心が薄れ、本質に近い普遍的なことばかりに目が向いてしまう
自己の欲や損得が絡んでくると、どうしてもフィルター越しにモノゴトが写ってしまう
そんなことをややこしく感じ出しているということは、熟されてきたということなのかもしれない
「お客さ~ん、熟れてまっせ!」
それではまた来週!
