第二百十九話 ルッキズム
毎週日曜日は『じろうの道草』コラムの日。
今回は、最近気になっていることを綴ってみようと思う。
それではどうぞ。
「リーさん。」
ある日のこと、階段の窓の外側に一匹の小さなヤモリがいた。
王冠の飾りとも跳ねた水滴ともまた違う、モミジのようなとにかく可愛い手が曇りガラスに透けて見える。あまりの愛おしさに、ヤモリの”リーさん”と名付けてみる。なんならうちに迎えてみようかとアタマをよぎったが、小さくても生き物は生き物。むやみやたらに飼おうなどと思ったことに反省などもしてみたり。
小さくて可愛いといえば”アマガエル”。キレイな黄緑色でツルンとしてて、クリクリした目の愛嬌あるあのカエル。アイツを見つけるとなぜか捕まえようと試みて、安全なところへ逃したくなる衝動に駆られる。お節介なのかありがた迷惑なのか、当の本人しかわからない。
よくよく考えたらどちらも爬虫類、もともとあまり好きではない。ヤモリもアマガエルも小さいから可愛く見えるけど、お腹の赤いイモリとか茶色くてちょっとうるさいウシガエルだったとしたら、そこまで可愛くは思えない。
これぞまさに『ルッキズム』
「外見差別〜」だの「ルッキズムのない社会」だの言われている反面、”顔面偏差値”とか酷いこと言ってたり、”映える文化”が経済まで動かしちゃうのだから、見て見ぬふりなどできなくなる。
ヒトは視覚から入る情報を、瞬時にかつ直観的に感じとってしまう。こればっかりは仕方がない。ただの倫理や道徳という理性だけで抑え込もうとしている現代のコンプライアンス社会。心ではどう思っていようが上っ面だけ整えればいいという、この薄っぺらさは『ルッキズム』とたいして変わらない。ただの見た目か発言かの違いだけ。昭和の悪しき慣習が見直されてきた反面、失っているものも大きい。なんと難しい時代だろう。
すごい美人でものすごく性格の悪いヒトが、永遠の幸せを手に入れられるであろうか。本音の言えないもの同士が、どれだけいい仕事ができるのであろうか。
大事なのは中身、言葉の真意、モノの本質
これらを理解して見抜けるようになることこそ、成長でありヒトとしての深みになっていくことだろう。それには良いことも悪いこともいろんな経験が必要だし、それこそ自分磨きが必要になってくる。『ルッキズム』の対局にあるところ。
外見ではなく、中身のね!
「まとめ。」
大事なものは、たいてい内に隠されているもの
目に付くものは、たいてい替えの効くものばかり
いまの自分でわかったことは、これぐらいが精一杯
ヤモリの”リーさん”から思わぬほうへ
ペットはやめて、家庭菜園でもしようかしら
それではまた来週!

