第百五十二話 ギョウザ、ツツム。
毎週日曜日は『じろうの道草』コラムの日。
さて今週は、先日のある出来事の話をしてみようと思う。
それではどうぞ。
「誕生日。」
友人たちが誕生日を祝ってくれた。
なにをするという予告もなく、言われるがままにテーブルに着く。目の前に出されたのは、タッパーに入った餃子の餡。餃子の皮、ナイフ、接着する水が用意され、包む準備がセッティングされる。傍らにはシャンパンにビール、3人でくっちゃべりながらの単純作業。
楽しい!楽しすぎる!
これが噂の餃子パーティーなのか。タコパや鍋パなど、陽キャがやっているとよく耳にする例のやつ。小学生以来の餃子包みに当初おぼつかないまでも、徐々に感覚が馴染んでいく様子が伺われる。3人分の手作り餡は、あっという間になくなってしまう。これでおしまい、ずっとやっていたい。酔っ払ってることもあってか、ものすごく楽しい時間に初めての感覚。この歳になり、知ってしまった餃子パーティーのおもしろさ。
ここでひとつの疑問が浮かぶ。
これがもし仕事となったらこんなに楽しくできるだろうか。お店の仕込みとして毎日1000個、時間に追われながら作らなければならない。終わったとしても次から次へやることがある中、きっと楽しんではいられないだろう。でも、餃子を包むというやっていることはまったく同じ作業。
この違いはなんなのか。
いままでの経験から、数が決められたことをすることに異常な恐怖を感じてしまう筆者。残りがいくつあって、1分でいくつできて、ということはあとどれくらい時間が掛かるから、、、など余計な強迫観念に自らを追い込んでしまう。さらに、もっと確実に早く仕上げる方法がないかを模索したりと、あまりにも集中しすぎて終わったときものすごい脱力感に苛まれる。もちろん達成感もあるのだが、反面、いちいち一喜一憂してられないと思うところもある。
時間に追われているのか、気の知れた人たちと一緒にやるのか、同じ作業でも環境次第でどうとでもなってしまう。ということは、どんなことでも気持ちの切り替え具合によっては、ちょっとは楽しい作業に変えられるのかもしれない。
そんな無敵の可能性を見出してしまった誕生日
めでたいめでたい
「まとめ。」
気持ちの切り替えで、なんでもかんでも楽しくなりゃ誰も苦労しない。
それはそうなのだが、ただ、餃子を包むという行為はまったく同じことをしているわけで、なにかが違うからそこに相違が生まれている事実。
なにをしているから辛いのではなく、見えないなにかが苦しめるのではないだろうか。時間だったり圧力だったり、人間関係も見逃すなかれ、作業以外の占める割合が相当でかいと想像できる。楽しむまではいかなくとも、せめて感情ゼロの無心状態になれればこっちのもん。
そんな機会があったら、『気持ちの切り替え作戦』を試してみるつもり。
結果はいつかまた
それではまた来週!